お盆休みに実家に帰ると、母が「最近囲碁を習い始めた」という話題になった。そして9×9マスの初心者用の碁盤を使った子供たちへの囲碁教室が始まり、また両親と子供たちがそれぞれ試合をする、という流れになった。
30年前の思い出
子供のころ、私も父から囲碁を教わった。父の部屋で、父が昔使っていた立派な碁盤と碁石を見つけたことがきっかけだった。基本的なルールを教わったあと、夕食後に父と囲碁を打つことがしばらくの間に日課となった。初めはハンデとしてあらかじめ25個も置き石をしてもらったのだが、それでもボロ負けした。囲碁は簡単に言えば陣取りゲームだ。お互いにに石を使って自分の陣地を囲っていく。自分の石が相手の石に囲まれると、石を取られてそこが相手の陣地になってしまう。
私が自分の陣地を作ろうと石を置くと、小さな陣地を作っている間に父は大きな陣地を作ってしまい、まったく歯が立たない。対抗して私も大きな陣地を作ろうとすると、私の石は父に囲まれて全滅してしまう。悔しく寝泣きながら囲碁を打ったこともあった。
3連勝したらハンデを減らしていき、置石が9個になったところまでは覚えている。しかし私が受験などで忙しくなったからだろうか、いつしか囲碁をすることはなくなった。私にとって、父は越えられない高い壁のままだった。
私が父と囲碁をしていたのはもう30年も昔の話だ。そして今、私はあの頃の父の年齢に追いついている。あの時、父はどういった気持ちで私と囲碁をしていたのだろうか。
教師をしていた父は、家でテストの採点をしたり、土日も部活動の顧問のため学校に行くことが多かった。そのため子供のころに父と出かけたり、一緒に遊んだ、という記憶はあまりない。そんな中で、二人で繰り返し囲碁を打つ日々は、父からすれば子供とコミュニケーションをとり、また真剣に向かい合うことのできる貴重な時間だったのかもしれない。
ただ、父は私と囲碁をしていたことはあまり覚えてないようなので、教師側の立場で、教えを乞う生徒に教育の一環として囲碁を教えていただけかもしれない。今となっては、父の真意は分からない。
囲碁には広い視点が求められる
やったことがない人には説明が難しいが、囲碁で勝つには広い視野が求められる。本来の碁盤は19×19マスもあり、石を置く場所は361個もある。序盤の石の置き方によって、陣地の広さが10や20も変わってくるので、隅っこで陣地を固めるだけでは勝つことは難しい。また相手も自分の石を囲もうとするので、責めていると思ったら追い詰められていた、と言うことも良くある。攻守の視点、全体を見る視点が必要になるのだ。
父と息子(祖父と孫)の試合では、9×9路盤で息子は3子のハンデ(あらかじめ3つ先に石を置いておく)をもらっていた。しかし視点の切り替えが出来ず、息子はかなりの劣勢だった。81マスしかないので、そこで自分の陣地を作れなければ全滅もあり得る。そして実際、息子は全滅する寸前だったのだ。だが終盤に息子は粘りを見せ、そこで父が打ち方を間違えれば息子が大逆転できるところまで盛り返した。結局、最後は父が冷静に対処し、劣勢をひっくり課すことなく息子の大敗だった。息子は悔しがったが、私は両親が孫と交流する時間を作れて満足だった。両親はもっと練習しないとと意気込んでおり、子供たちも次回の帰省でのリベンジを誓っていた。帰省の目的が増えたことも、両親の目標が出来たことも喜ばしいことだ。
だが、その囲碁の試合では、私はずっとモヤモヤしていた。息子の大逆転の可能性への盛り上がりに水を差すわけにはいかなかったし、試合中に外野が口を出すのは当然ながらタブーなのだが、実際は大逆転の可能性などなかったのだ。なぜなら息子がどれだけ盛り返そうとしても、父がある場所に石を置けば息子の大きな石の繋がりをほぼすべて囲んでしまえる状況だったのだ。だが父の表情からは余裕が消えており、その状況には気づかずに必死で息子の粘りを凌いでいた。
その時、父はもう74歳の後期高齢者なのだとあらためて実感した。当然ながら体力、記憶力、思考力は年相応に低下している。定年退職後もしばらくは教師を続けていたが、祖母の介護や自身の体力も鑑みて数年前から仕事はしていない。かたや私は現役バリバリであり、日々さまざまな判断を求められる状況で頭はフル回転している。それこそ局所的な問題を目の前にしながらも、大局的に判断して対処することの繰り返しなのだ。そんな私と父では、盤面上で見えている世界が全く違っていた。
気づけば父を越えていた
ずっと越えられなかった父の壁だったのに、気付けばあっさりと越えてしまっていた。ただそこに喜びはなく、加齢に伴う父の衰えを実感して寂しい気持ちが強い。
今回の帰省では、祖父母と孫の良い交流の機会になればと思い、私は父とは直接囲碁を打つことはなかった。だが一緒に囲碁を打つ時間があとどれだけあるか分からない。次回帰省した際は、親子孫の3台でともに囲碁を楽しもう。