御座候を食べながら息子に語った話。

人生をマネジメント
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御座候は、地域によって「今川焼」「大判焼き」など様々な名前で呼ばれている。一時期はNHKの朝ドラの影響でかなりの人気だったが、今はそれなりに落ち着いてきたようだ。いまだに1個110円と良心的な値段であり、冷凍もしておけるので我が家には欠かせないおやつだ。

先日、天気がよかったので、お店で買った御座候を食べながら息子と二人で歩いて帰った。息子と歩くと、ついつい語ってしまう。父として息子に伝えたいことが沢山ある。また息子に話をすることで自分の考えが整理できて、新たな気づきや発見になることも多く、我ながら興味深いネタになったので記事に残しておきたい。

あんぱんの値段のひみつ

私も息子もあんぱんが好きだ。物価高の影響はあっても町のパン屋さんならまだ1個180~200円で買うことが出来るので、パンの中では比較的コスパが良い。さらにスーパーなら薄皮あんぱんが4個入りで100円未満で購入できる。御座候とはまったく別物ではあるが、あんこの量や原材料を比較すれば、スーパーで買うあんぱんのほうが更にコスパがいい。

パンを作るには「材料を混ぜて生地を作る」「発酵させる」「具を入れる」「焼く」といった複数の工程が必要だ。御座候は生地を型に入れてあんこをはさんで焼くだけでよく、パンと比べればかなりシンプルだ。あんぱんと同様に「小麦」と「あんこ」が主な原材料なので、値段の違いは主に手間ひまや人件費の違いになる。そして商品は工場で製造プロセスを自動化し、大量生産することで人件費をおさえることができる。これがスーパーのあんぱんがリーズナブルになる理由だ。実際のパン工場は見たことがないが、お菓子や飲料品の工場を見学に行くとかなり自動化が進んでいて、工場内で働いている人はほとんど見かけなかった。きっと大規模なパン工場も同様に自動化が進んでいるのだろう。でなければあの値段の説明がつかない。

しかし、コスパとはただ安ければよいというものではない。コストパフォーマンス、つまり費用対効果だ。スーパーのあんぱんも美味しいしそれで満足する人も多いだろうが、私は町のパン屋のあんぱんの方が好きだし、出来たての御座候は最高だ。スーパーのあんぱんに代わりがあっても、御座候の代わりはない。

代わりの利く仕事はキャリア形成が難しい

テレビで外国の工場を見た。そこでは多くの人がラインで働いていて、毎日同じ製品を作り続けていた。従業員たちは、工場にある食堂で提供されている食事が毎日の楽しみだという。

食堂を含めた福利厚生は従業員の満足度を高めるためのものだ。採用にはコストがかかるし、工場のラインのような定型的な仕事であっても、新人と中堅・ベテランではその作業効率や品質に差がでる。そのため会社としては一定のレベルになった従業員にはできるだけ長い期間を働いていてほしい。だからといってラインでいくら効率よく作業ができる従業員であっても飛びぬけて高い給与を支払うことは難しい。マニュアルのある定型的な作業において熟練度の差は致命的なものではなく、代わりが利かないことはない。給与以外の福利厚生などで従業員を引き留めようとしても、給与面での特別扱いには限界がある。

しかし、管理者側であったり、工程を効率化したり自動化ができる人材であれば話は別だ。また、ラインワーカーであっても習得が難しいスキルをもつ場合は代わりが利かない。他社も必要とする知識・ノウハウ・スキルを持っていれば、転職も比較的容易だろう。そのため、そういった人材に対しては特別扱いし、給与や評価を手厚くする。辞められては困るからだ。

逆にその他大勢のラインワーカーは、毎日似たような作業の繰り返しなので特別なスキルが身に着くことはない。たとえ20年間毎日ミスなく働き続けたとしても、特定の工場のなかで決められたマニュアル・手順に限った話となるため、転職活動でのアピールとしては不十分だ。キャリアアップにはつながらないばかりか、新しい会社では一から学ぶこともあるので給料が下がる可能性が高い。

工場のラインワーカーに価値がない、なんてことはない。一人二人なら代わりはいても、ストライキがあれば工場は稼働できずに製造も止まってしまう。工場の従業員が毎日同じ仕事をミスなく続けているおかげで、我々も安心して一定以上の品質の商品を手に入れることが出来ているのだ。そしてそこで働く人たちも、日々の繰り返しの中で確実に成長し、生産性や品質の向上に寄与している。ただそれらは「売上」のような数字には表れず、また成長によって獲得したスキルもキャリア形成に役立てることは難しい。

代わりの利かない仕事にこそ価値がある

プロ野球選手は1球団で70人しかいない。1軍に限れば出場選手登録は29人まで、ベンチ入りできるのはわずか25人だ。その中には怪我や好不調に備えた代わりはいるが、1軍で試合に出なければ評価されることはないので、誰もがスターティングメンバーや先発ローテーションなど重要なポジションを目指している。1軍入りした選手であれば、他の選手に替わられることがないよう努力を怠ることはできないし、常に良いコンディションをキープできるように食事や生活面でも気を使っている。

当然、マニュアルなんて存在せず、決まった作業を言われたとおりにやれば給料が保証される、なんてこともない。ミスや失敗をしなければ安泰、なんてこともない。逆に10打席で7三振しても3本ヒットを打てば評価される世界だ。毎日練習を続けていれば着実に成長するし、技術や筋力も向上するが、それだけて1軍に居続けることはできない。プロ野球選手という、ファンを楽しませスポンサーを喜ばせるための仕事においては、勝利に繋がる成果がでて初めて評価される。

三振をした後に、なぜバットに当たらなかったのか、どうすればよかったのか、改善するために何をしたらよいのか、原因と対策を振り返り検討し、必死に練習しても、試合などで練習の成果を発揮して成果を残さなければ、次の年も契約を続けてもらうことはできない。必死に練習を続けて努力を積み重ねても結果がでなければ意味がないのだ。

サラリーマンにも、代わりの利く仕事とそうでない仕事がある

会社勤めのサラリーマンは、今のところそこまでは厳しくない。ほとんどの会社は、入社さえすればよっぽどのことがなければ解雇されることなどない。もちろん出世・昇給を望むのであれば、それを叶えるためにはそれなりに努力し、成果を残し、会社や上司に対してアピールし続けることが求められる。でも最低限の給料で、仕事内容や職場環境も選ばなければ、特別な成果を残さなくても会社が存続する限りは給料は支払われ続ける。不祥事などで会社に損害を与えたり、服務規程に反する行動をとれば解雇もあり得るが、実際に解雇に至るのは余程のことだ。これが古き良き日本の終身雇用制度なのだ。

サラリーマンも、10年20年と働いていればそれなりに知識と経験が蓄積されていく。工場のラインで働いていれば、新人と比べればベテランのほうがミスなく効率よく作業できる。会社には様々な役割があり、役職がある。部長や課長、マネージャーやリーダーなどの管理者だけでは仕事はできない。その下に実際に手を動かして価値を生み出す大勢の労働者がいる。車で言えばエンジンであり、このエンジンが低コストで効率よく動くことで、会社の収益が増えていく。しかしエンジンだけでは車は走ることはできない。この車を操縦するのが管理者であり、目的地を示すのが経営者だ。車はただエンジンを吹かすだけでは意味がなく、走って人や荷物を運ぶことで価値が生まれる。

契約社員は単純な労働力となることが求められることが多く、権限や責任がない代わりに給料も安い。まさに低コストで会社を回すには欠かせない役割なのだが、ラインワーカーと同様に代わりが利くことが多く、また長く働くことによるキャリアアップにも限界がある。

学生の本業は学ぶこと

息子はまだ中学生だ。大学まで進学するのなら、社会人として働き始めるのは10年も先の話になる。そして学生にとっての勉強は、スポーツ選手における練習と似ている。学生は学校や塾、家庭で日々勉強し、定期的なテストで勉強の成果を確認し、その結果によって勉強の仕方を変えたりモチベーションを高めたりする。しかし頑張ることで褒められたり励まされることはあっても、勉強することが評価の本質ではない。勉強はあくまで自分のためのであり、それ自体が人の役に立ったり、社会貢献に繋がることもない。勉強によって得た知識を使って、何かを成し遂げて初めて社会から評価され、そこに価値が生まれるのだ。

学生である間は社会から成果を求められることはない。努力を続けて知識を増やし、能力を向上し続けることが学生の本業であり、社会に出るための準備期間なのだ。高校、大学、大学院に進学するということはそれだけ長く準備ができるため、就職した後で残すことのできる成果・貢献の価値を高めることに繋がるのだ。特別な知識、スキルを身に着けずに社会に出れば職業の選択肢が狭まる。そして一度派遣労働やラインワーカーといった代わりが利く、給与の低い仕事につくと、そこで得られる知識・経験も限定的となり、キャリアを積むことができず、代わりの利かない価値のある職業からはますます遠ざかる。自分の価値を高めるための難易度もあがり、自己肯定感も低くなる。まさに負のスパイラルに陥ってしまう。

だからこそ、学ぶことが大事なのだ。社会人になっても学ぶことはできるが、働いて成果を残すことを求められる中では学ぶ時間や機会も限られる。これは社会人になってから痛感したことだ。学生のときにもっと勉強しておけばよかった、様々な経験をしておけばよかった。もう、あの頃のように自由に時間を使うことはできない。

まとめ

勉強がすべてではない。また、学校で学ぶことだけが学びではない。友達と交流し、家族と過ごすなかでも学びは得られる。でも、それが学びでありそして自ら学ぼうという意識を持てば、そこから得られるものの価値は数倍にもなる。

そしてこの学生という社会に出るための準備期間によって、社会に出てからの価値が大きく変わるのだ。

毎日なぜ学校に行って勉強するのか。父として息子に伝えたかった答えが、これだ。

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