それでも期待してしまう

感情をマネジメント
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一方的な期待をせずにハードルを下れば相対的に日々の満足度はあがり、幸福度も高くなる。

頭ではわかってはいるものの、結局人間は感情の生き物であるし、私もそこまで達観した生き方は出来ていないということを改めて実感した出来事があった。

パン作りを始めた

3月にオーブンレンジを買い替えたことをきっかけにピザやパン作りを始めた。マニュアル通りに発酵や余熱、加熱の時間と温度を設定すれば細かい調節は機械が自動でやってくれるので、今まで及び腰になっていたパン作りのハードルが下がった。

最初に作ったのはピザだった。小麦粉やドライイースト、水を分量通りに混ぜて捏ねて成型するだけなので、思った以上に簡単だった。初めての割にはうまくできて嫁や子供たちからは高評価だった。その次はロールパンを作った。生地の粘度が高く成型に苦労したものの、焼き立てのウィンナーロールはとてもおいしかった。

2回の成功に味を占めてベーグルにもチャレンジした。私はベーグルが大好きで、いつか自分で朝食に焼き立てベーグルを食べてみたいと思っていた。だがパンは発酵に時間がかかり、しかもベーグルは焼くまえに軽くゆでるという工程が必要なのでなかなか面倒くさい。しかも朝食に間に合わせるためには朝早くから作り始めなければならない。だがいろいろとレシピを調べていくうちに、生地に豆腐を混ぜれば長時間の発酵は不要(モチモチが好きなら発酵なしでもOK)だということが分かった。それなら所要時間は1時間程度なので、休日ならば朝食に間に合わせることが可能だ。

だがパン作りは温度以上に分量、特に水分のコントロールが重要だ。水分が多すぎると成型が難しくなるだけでなく、膨らみ具合や焼き加減にも影響がでる。そして豆腐は製品によって水分の含有量がマチマチなので、レシピ通りに作っても実際は生地の粘り具合をみて小麦粉の量を調整する必要がある。パン作りの経験が浅い私にはこの微妙なさじ加減が分からず、出来上がったベーグルは明らかに水分量が多く、モチモチを通り越して少しネチョッとしていた。中まで火は通っていたがほとんど膨らまず、焼き立てであってもお世辞にも美味しいとは呼べない代物だった。

家族にも焼き立てベーグルを食べてもらいたいと思っていたが、さすがにそんな代物を食べさせるのは気が引ける。また家族の誰も、あまりおいしそうには見えないベーグル”らしきもの”には手を付けなかった。チョコチップを多めに入れてもウィンナーを巻いても、生地作りの失敗を補うことはできなかった。結局その日に焼いたベーグルは数日間の私の朝食となった。

また別の日、今度はクッキーを焼いてみた。オートミール(クイックオーツ)とバナナ、ピーナッツバターを混ぜて焼くだけで、砂糖を使わないグルテンフリーのクッキーができる、というレシピを見つけたのがきっかけだ。朝食用にオートミールを買って常備してあるが、最近は朝食の食べる量にも気をつけているため、いくら低糖質でミネラルが豊富とはいえ、オートミールがなかなか消費できずにいた。またピーナッツバターは嫁が健康的かつ美味しいと聞いて購入したのだが、彼女の口には合わなかったため冷蔵庫で眠っていた。ベーグルを作る際に購入したチョコチップも残っているので、必要な材料はすべて揃っている。混ぜて焼くだけなので1時間もかからずベーグル以上にお手軽だ。

そして思った以上にちゃんとした、カリっとしたクッキーが出来上がった。ピーナッツバターの風味が強く、焼き立ては熱々でとても美味しい。食べ応えもあり、小腹が減ったときの間食にも最適だ。だがこれまた嫁も子供たちも、そのクッキーは好んで食べようとはしなかった。そもそもピーナッツバターの味が好きではないのだろう。砂糖を加えていないので甘さが足りなかった、ということもある。子供たちは一つだけ味見してそれ以上は手を伸ばそうとしなかった。嫁に至っては「見た目が不安」と一蹴されて、味見もしてもらえなかった。

手料理は誰のため

パンもクッキーも、誰から頼まれたわけではなく自分で作りたいから作った。誰かのためではなく、自分のために焼いたのだから、私自身が満足できればそれでよいはずだった。失敗して誰かに責められるわけでもないし、成功しても失敗しても経験値が増えることで私は確実に成長できる。初めてのことにチャレンジし、経験値がゼロからイチにする。それ以上でも以下でもない。出来たものを食べてくれないからといってそれを責めるのもお門違いなのだ。

だが作った料理の出来以前に、家族の誰にも喜んでもらえなかったことに私の心はざわついた。心のどこかで家族に対して焼き立てのパンやクッキーを食べて喜んでもらいたい、という思いを抱いていたのだろう。自分で勝手に作ったにもかかわらず、それを評価し認めてほしい、と思ってしまっていたのだ。出来がイマイチでも、味見でもしてそのイマイチ感を共有してほしかったのだ。我ながらまったくもって独りよがりで自分勝手だ。求めていないのにベーグルやクッキーの試食を押し付けられ、一方的に期待され、その期待に応えられなかったからといって不機嫌になられては家族も良い迷惑だろう。

嫁や子供たちの反応は、頭では理解しているし納得もしている。実際はそこまで過度な期待はしていなかったし、極端に不機嫌になったわけではないが、少なからず生じた心のざわつきを止めることはできなかった。偉そうに物事を語ってはいても、まだまだ私も未熟なのだ。

だがあらためて考えてみると、この心のざわつきが生じなくなって平穏に過ごすことが出来る日々が幸せなのかというと、それはまた違うのかもしれない。極論を言えば、喜怒哀楽がなくなれば感情の起伏も失われてしまう。それは日々を精一杯生きているとは言えないのではないか。不満や不安があるからこそ、そのあとで得られる喜びや幸せは大きくなるのではないか。

それならば、如何にこの心のざわつきを抑えるかを考えるのではなく、今回うまくいかなかった経験を活かしてリベンジし、それこそ最初から家族に喜んでもらえるようなベーグルやクッキーを目指すことこそが解決策なのかもしれない。

完全に自己満足であり、他者からの評価は一切求めないことを徹底できるのならば、自分のことだけを考えてやりたいようにやれば良い。だが少しでも他者から評価されたいと期待するならば、一方的で独りよがりな期待をするのではなく、どうすれば相手を喜ばせる事ができるのかを最初から念頭に置いておく必要がある。

誰のためにパンやクッキーを焼いたのか。ターゲットを定めた上で、評価してほしければ評価者の目線を意識し、評価者の気持ちを考えなければならない。評価されたければ評価しやすくしなければならない。その視点のズレこそ、私の心のざわつきの正体に違いない。

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