生き物が絶滅するのは仕方がない

雑記
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これは私の持論だ。

淀ちゃん、逝く

1月9日に淀川の河口近くで発見された迷いクジラ(愛称:淀ちゃん)、残念ながら海に帰ることはなく13日に死んでいることが確認された。全長15メートルものクジラが橋の上から直接目視できることもあって、関西を中心に話題となっていた。市民からは「助けてほしい」といった声も上がっていたらしいが、専門家や巡視していた海上保安監部にはどうすることもできず、残念な結果となった。

野生動物は保護すべきなのか

淀ちゃんのケースは少し異例かもしれないが、野生動物が人の生活エリアに現れると「何とかしたい」「保護したい」といった意見が少なからず出る。この意見の源泉はなんだろう。かわいそうだから助けたい、という慈悲の心だろうか。車に引かれて死んでいる猫をみたら「かわいそうだ」という気持ちになるが、では死んだ魚が川に浮いていたらどうだろう。人間のせいで命を失うから「かわいそう」だというのなら、食肉用の家畜も同じではないか。車に引かれたら「残酷」で、食肉処理施設は「仕方がない」のか。

もちろん飼っている動物は話が違う。価値観の差はあるが、一緒に生活していれば動物といえども家族のような存在になる。家族が怪我をしたり不慮の死をとげたのならそれは悲しいことだ。家族の存在は自分の生活の一部だからだ。しかし野生動物や野良猫は家族ではない。

絶滅危惧種を救う意義とはなにか

現在、世界中で多くの野生生物が絶滅の危機にあり、1年で約4万種類が絶滅していると言われている。人間が農場開発のために森林を伐採して動物の生活環境を壊したり、食料や毛皮のために乱獲したりする。外来種を持ち込んだことでその土地の在来種・固有種の存在が脅かされる。地球温暖化による気候変動が絶滅の原因となることもある。様々な理由で数多くの生物が絶滅の危機に瀕していて、彼らの絶滅を回避するための世界中で多数の保護団体が活動している。

なぜ野生動物を絶滅させてはいけないのだろうか。地球の生態系はたくさんの種による複雑で微妙なバランスの上に成り立っていて、一つの種が絶滅することでそのバランスが崩れるから良くないのか。人類の登場で野生動物の絶滅スピードが速くなり、そのばため生態系の崩壊も頻繁に発生するようになった。それでも生き物は個々で生存本能・種を保存する本能があり、進化を繰り返して適応してきた。様々な生存競争があって今の生態系がある。人間もその生存競争を生き抜いて今の繁栄を勝ち取った。それ自体は自然なことで、生物が絶滅するのもまた自然のことではないのか。人が成す行為もまた自然の営みの一つではないのか。

それならば、野生動物を保護する意義とはなにか。パンダやコアラが絶滅しても、アフリカで象やキリンが絶滅しても、それ自体はほとんどの人間への影響はない。動物園などで愛がんする生き物が減るが、そもそも動物園自体が不自然な存在でもある。衣食住に直接関連しないかぎりは野生動物を保護する必要があるとは思えない。

野生動物の保護ではなく、人間自らの生活環境を守ること

結局は、人間を中心に考えるべきだ。人間は生存競争を勝ち抜けた万物の長だ。文明を気づき科学技術を得たことで、地球上のいたるところに進出した。だが、だからといって人間がすべての動物を保護する義務はない。それは逆に驕りだと思う。人間は神ではないのだ。

人間は、人間のために動物を保護するのだ。愛がん動物が絶滅したら人間が彼らを見て楽しむことができなくなる。また動物が生きられない環境は人間にとっても生きづらい。生態系が崩れて森林が砂漠化すれば農作物が育たなくるし、野生動物を狩って生活している人たちには死活問題だ。そのため野生動物の捕獲量はコントロールしてバランスを維持すべきだし、地球温暖化や水質・大気の汚染防止のための活動も重要だ。野生動物の絶滅を避けるためではなく、人間自らの生活環境を守るためだ。

野生動物が絶滅することは仕方がない。それが自然の摂理だ。生き物はその一つ一つが本能に従って精いっぱい生きている。環境の変化に負ければ絶滅し、適応して進化すれば繁栄する。その長い道のりを得て人類がいる。

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