祖母との面会
97歳になる祖母がいる。かなりの高齢ながらそこまで認知症は進んでおらず受け答えは普通にできるのだが、さすがにここ数年で記憶力が極端に低下していた。特に短期記憶はほとんどなく、私が里帰りした際に言葉を交わしても、その数時間後には「久しぶりだね、何年振りかね」と、数時間前の同じやり取りを繰り返しになる。父は、実の母のそういった状況が受け入れがたいのか、また元教師と言う性分もあってか「朝も挨拶したんだよ」と事あるごとに訂正をしたくなるようだ。久しぶりに会いに来た実の孫の顔を忘れてしまっていることを私が悲しく思うのを気遣ってのことかもしれない。そしてその都度、祖母は若干混乱しつつもその混乱すらすぐに忘れてしまう。
その祖母が年末に体調を崩した。転倒して骨折し、また発熱や食欲不振もあって医者からは「高齢」が原因なので打つ手がない、と言われていた。かなり瘦せてしまい、母からは「おばあちゃんはもう長くないかもしれない」という連絡があったため、私は急きょ祖母に会いに行くことにした。骨折したことで自宅で両親二人で介護することが困難になり、祖母は老人ホームに入居していた。老人ホームは実家から少し遠く、面会前には抗体検査が必要でかつ1度に3名までの人数制限があるので、両親と私の3名での訪問となった。
昨年初に亡くなった祖父も同じ施設に入っていたが、コロナ禍中は面会が許されず、亡くなる3年前に会ったのが最後になってしまった。そのときに同じ轍を踏みたくはなかった。
ただ幸い、祖母は思った以上に回復していた。施設の医師やスタッフのケアによって適切な骨折の治療やリハビリが行われ、抗生物質の点滴によって熱が下がったことで食欲が戻っていた。また食堂やレクリエーション室で大勢と交流することが刺激になるのだろうか。夏に会った時よりも若干痩せてはいたものの、顔色は良く元気そうだった。何より私の顔を見て、私が孫であることをすぐに認識していた。短期記憶を失っているのは相変わらずだったが、昔のことを覚えていてくれることが、私は何よりうれしかった。
一方的に期待しない
年末の面会はとても満足できるものだった。
私は何か見返りを求めて面会に行ったのではない。私を見て祖母が喜ぶ顔が見たい、私のことを覚えていて欲しい、といった期待はしていなかった。私が祖母に会いたいから会いに行ったのであり、会えさえすれば十分だった。短期記憶を失っている祖母の現状は理解しているので「誰だったかね?」と言われても構わないし、特段ショックでもない。祖父の時のように亡くなるまで会えないという最悪なケースを回避したかったのだ。抗体検査で陽性になって会えなったり、祖母の体調が悪化して面会できない、といった状況でなければ私の望みは叶うのだ。だからこそ、元気そうに笑顔で父と話す祖母に会えて、しかも私の名を呼んでくれたことは期待以上であり、無上の喜びだった。
お金を払って商品を購入したりサービスを受ける場合は、そこに契約が発生するため払った側は金額分の見返りを受ける権利があるし、お金を受け取る側には金額分の結果を提供する義務が生じる。雇用主は従業員に対して支払う給料分の労働を求めるし、従業員は給料をもらうからにはその分の成果を出さなければならない。契約であるからには、双方が対等ということになり、どちらかが損・得をするということはない。商品を購入する際には、購入することで得られる何かに期待するが、その期待は支払う額に見合ったものとなる。ただでもらったものに、過度な期待をする人はいない。
それと同じように、日々生活する上でも、周りに過度に期待してはいけない。それどころか、提供した分の見返りが約束されているわけでなければ、そもそも期待なんてしないほうが良い。
お金を払って子供を塾に通わせたところで、勉強するのは本人だ。親は環境を提供するだけであり、お金を払えば希望の学校に合格できるわけではない。本人が努力をすれば、その努力そのや結果の良し悪しもまた将来の糧になることは間違いないが、その経験を糧にしてどういった成果を残すか、何を為すかは期待しても仕方がない。親にできるのは環境を整えて応援することだけだ。
期待値を下げる事で、満足度があがる
そうして過度な期待をしなければ、日々の満足度も幸福度も上がるのだ。
嫁や母親が毎日食事を作ってくれたり、掃除や洗濯をしてくれることは義務ではないし、当たり前のことではない。仕事で他チームの人が質問に答えてくれたり、依頼事を引き受けてくれるのだって、やってもらって当然ということはない。私たちの日々の暮らしや仕事は、多くの人の善意のおかげで成り立っているのだ。そういった善意を当たり前のことだと考えず、感謝しなければならない。逆に、そうした善意を当てにして過度に期待してしまえば、期待通りにいかないと不満を抱き失望すら覚える。ストレスになもなるし、日々の満足度、幸福度が下がることにもつながる。
一方的に過度に期待するのではなく、期待値は自分の責任範囲で設定しよう。期待値を下げるというと語弊があるかもしれないが、期待を押し付けずに善意に感謝することこそ、幸福な人生のためには重要なことだ。