息子曰く、私との会話はめんどくさいらしい。
息子と話していると、つい色々なことを教えたくなってしまう。40年以上生きていればそれなりに人生経験も積んでいて、これから息子が直面するであろう様々な困難の多くを30年前に経験している。そんな私の経験や考えを伝えることで、息子の人生に少しでも役に立てて、より良い人生を歩んでほしいのだ。ただ、めんどくさいと思われる気持ちも分からないことはない。
小言や説教にならないよう自分自身の経験を思い出話としてそれとなく話すようにしてはいるが、ただ話を聞くだけでは身にはならない。そのため時に息子に対して「どう思う?」と自身の考えを聞いたりする。自分の立場に置き換えて想像し、自分ならどうするかを考えて追体験することで少しずつ経験として蓄積されていく。考えたことをアウトプットすればさらに理解が深まるので、私は息子にそれを期待して問いかけをする。中学生の息子からすれば、実際に困難に直面する前にそんなことを聞かれても、自分の考えを述べるのは難しいのだろう。だがめんどくさいからといって考えることを放棄してほしくない。
主体性をもたず、自身で考えなくてもほとんどの事は勝手に進んでいく。人の指示に従っておけばうまくいかなくても責任を負わなくて済む。自分で判断するとその責任は自身が追うことになり、その重圧から逃げるために人に判断を委ねてしまう。だがそれでは誰の人生か分からないし、人に判断を委ねてはいけない局面が訪れた際に自分で判断できなければ満足のいく人生は歩めない。だからこそ、親としてはできるだけ子供に判断材料を教えておきたい。そして自身で決めるという経験をさせておきたい。
専門家ならまだしも、明確な答えがないケースであれば人の判断に従ってたところでうまくいかないことはあるし、自身の考えの方が正しい事だってある。その時になって判断を委ねた相手を責めるのではなく、自分で決めなかったことを後悔してほしい。自身でもっとよく考えておけばこんなことにはならなかったのだと自覚してほしい。また自身の発言・決定によって周りを良い方向に導くこともできるという可能性を信じて自信を持ってほしい。
その反面、どんな話をしたところで聞く側にその準備ができていなければ、まさに馬の耳に念仏となることも知っている。人は誰しも「今」を生きていて、その時点で直面している困難や悩みに対しては答えを欲し、人のアドバイスにも耳を傾けようとする。だが数年先に待ち受けるであろう困難に対しては、それを自身が今考えるべきことと認識しなければどんな良いアドバイスにも実感が湧かず心に響かない。その時が来たら数年前に私が話したことを思い出してくれればいいと期待はするが、両耳を素通りした言葉を思い出すことなどないだろう。
では自分が小中学校のころはどうだったろうか。私は何を思って日々を過ごしていたのだろう。少なくともどんな大人になりたいか、なんて具体的なビジョンはなかった。毎日の部活動や、週末に友人と遊ぶこと、次のテストのことくらいしか考えてなかったような気がする。高校受験が近づけば高校のこと、大学受験が近づいたら大学のこと、就職が近づけば会社のこと、結局は直面していたことしか考えていなかった。その時に誰かのアドバイスがどれだけ参考になったかなんて、正直覚えていない。本はよく読む方だったが、どんな本に影響を受けたかも分からない。
だが、今の私自身を形作る際に、子供のころの様々な経験や、親や教師から聞いて学んだこと、本を読んで考えたことが血肉となっていることは間違いはない。あの時のあの言葉、のように強く心に残ってはいなくても、日々の経験の積み重ねによって人間性や考え方は変わっていく。小さな気付き、自身の決断を繰り返して、少しずつ良い方向へ進んでいく。その先に今がある。
どの言葉に効果があるかは分からない。だからこそ、私は今日も息子に語るのだ。