子供の小学校の参観に行った。国語の授業で、各班に様々な「もしも~だったら」というテーマが割り振られ、まずは自分がどうしたいかを考える。そしてそのあと班の中で意見交換をする。自分とは違う意見を否定せず、共感して違いを認め、また共通点を探して理解する、という議論の仕方の初歩を学ぶ内容だった。
私の子供の班のテーマは「もし1日だけ有名人になれるとしたら、誰になりたいか」だ。娘は『木村拓哉』になりたい、と言っていた。「お金持ちだから」という良く分からない理由に苦笑していたら、そのあと先生が「お父さん、お母さんにも聞いてみて」と言うので他人ごとではなくなってしまった。
子供たちの質問に対してすぐに答えが出なかったので、「後で答える」と言って少し時間をもらった。
有名人になる、とはどういうことか
「有名人になる」と一言で言っても、まじめに考えるといくつかパターンがある。
①有名人に変身する(見た目だけ)
私の体の見た目が有名人に変身するが中身は私自身だ。有名人の能力は引き継がれず、例えば大谷翔平に変身しても、160kmの剛速球を投げることはできない。演技力や歌唱力も、持って生まれたままだ。1日有名人の顔や体形になれば、周りからの羨望のまなざしを浴びることはできるが、中身や能力は変わらないのですぐにボロが出てしまう可能性もある。
②有名人に変身する(能力も引き継がれる)
①と違って能力が引き継がれ、早く走ったり演技をしたり難しい歌を歌うことができる。なにかプロフェッショナルになりたいと思っている人にとって、その目標となる人物の能力を実体験できるのなら有意義なことかもしれない。ただし中身や性格、記憶などは変わらないから、①と同様に周りとうまくコミュニケーションをとることは難しい。
③有名人に憑依する(中身は私)
有名人に乗り移り、意のままに操ることが出来る。ほとんど②と変わらないが、③はその体は有名人のものだ。病気や怪我をしても私の体には害がない。どれだけ食べても、元に戻れば私の体が太ったりはしない。
④有名人に憑依する(中身も有名人)
有名人に乗り移るが中身は有名人であり、自分では一切コントロールできない。中身(精神)だけ有名人の中に居座り、有名人の感覚や感情を疑似体験できる。
さて、今回の問いはどのパターンを想定すればよいのだろうか。しかも1日だけなので、何か享受するのならその日に完結することでなければ意味がない。となると「誰になりたいか」と言うことよりも「その一日で何を享受したいか」が重要になってくる。娘のように「お金持ちだから」という理由で有名人になったとしても、お金を持つこと自体に価値があるわけではない。何かを買っても所有できるのはその1日だけだ。
自己欲求を分析する
私の欲求の中で一番大きいのは『承認欲求』だ。仕事でもプライベートでも、感謝されたり、評価されることがモチベーションの源泉だ。しかし有名人に1日変身したとしても『承認欲求』が満たされることはない。変身した間に感謝・評価されても、それは私自身に対してではない。その1日が終われば私にはなにも残るのは思い出や記憶のみなので、承認されてもむなしいだけだ。
次に大きい欲求は『自己実現欲求』だ。『成長欲求』といっても良い。趣味のテニスが上達したり、100名城のスタンプを集めたり。仕事でも成長を実感できれば、モチベーションは上がる。だがこれも、有名人に変身することで満たされる欲求ではない。自分で実現したり成長することが重要であり、有名人の知名度やビジュアルを利用して実現しても意味はない。ただ、有名人に変身し、他の有名人に会うことで欲求を満たされるのであれば、少し話が変わってくる。
あとは3大欲求の一つ、『食欲』か。おいしいものを沢山食べたい、という欲求はあるものの、年のせいか最近は量を食べることは出来なくなってきた。食べすぎるとお腹が苦しいし、胃もたれすることにある。また新陳代謝の低下によって太りやすく痩せにくくもなっているので、もしそういったことを気にせずに食べたいものを食べることができ、満足感や味・触感を思い出として残すことができるなら良いかもしれない。
私は「マツコ・デラックス」になりたい
娘や他の子供に急かされ、私は「マツコ・デラックス」になりたい、と答えた。変身の条件にもよるので、私の真の欲求を満たすことができるかは分からない。だが、マツコがバラエティ番組で紹介された食べ物をおいしそうに際限なく食べている姿はとてもうらやましい、と思っていた。テレビで紹介された全国津々浦々のお店に自ら直接行くことは難しい。中には非常に高価なお店、人気のため予約待ちのお店もある。なにより次々とあれだけの量を食べ続けられる胃を持ち合わせていないので、もし1日マツコに変身できればいろいろな欲求を満たすことが出来そうだ。
だが、他の子どもたちの意見を聞いていると、自分の答えはとてもつまらない。そもそも前述の4パターンを考える時点で頭でっかちになっている。お金や時間、体面などの制約にがんじがらめになっていて、自由な発想が出来なくなっている。難しいことは考えず、自分の欲求に素直に向き合い、それを実現することを考えたらよいのだ。変身しても思い描いた願望が満足にかなえられないのでは?などと考えなくても良い。変身できるだけでも素晴らしいことだし、変身してたあとでなければ実際に何が出来るかは分からない。状況に大きく左右されて結果がどうなるか分からない事を先に考えすぎても仕方がない。
つまらない大人になってしまった
40年以上生きてきて様々な経験をしてきた。人並みに努力もしたし、良いこと・悪いこともいろいろあったが、そういった経験の先にたどり着いた現在はなかなか悪くない。結婚して子供も二人いて、大阪市内の一戸建てに住んでいる。一定の収入があり、日々の生活にも満足している。そこまでの不自由さも感じていない。これは十分に幸せといってよいだろう。
でもなにかが物足りない。強い欲求がない。夢がない。子供のころには「将来の夢」があり、また生きてきた中では様々な「強い欲求」もあった。それらを叶えるために努力し、また辛いことも経験してきた。夢がかなわず思い通りにいかない事も多かったが、そういった経験が糧になって今がある。ではこの先はどうなるのだろう。もう人生のピークを過ぎていて、あとはただ下っていくだけなのか。それで本当に良いのだろうか。「今」が枷となって、行動や思考を制限してはいないだろうか。
現状に大きな不満があるわけではない。今を変える必要性は感じてないし、変えることで「幸せな状態」が失われることなど決して望まない。ただ、この先もずっとなだらかな下り坂が続く保証なんてない。急に地割れが起きたり、道が途絶えることがあるかもしれない。そう思うと、現状がとても危ういものに思えてくる。「夢」や「欲求」のために戦ってきた日々、そこで得た経験という貯金を切り崩して生きているのだとしたら、その蓄えがなくなった後にもう一度戦い始めることはできるのだろうか。
「夢」や「欲求」を取り戻そう
何かを実行に移すときには計画があったほうがよい。計画的かつ戦略的に行動しなければ、特に難易度やリスクが高いことをやり遂げることは難しいし、無計画では失敗することも増えるだろう。でも失敗や経験から学ぶことも重要だし、失敗を恐れてばかりでは先に進めない。一番大事なことは「計画」ではなく「意志」なのだ。「夢」や「欲求」を実現するための強い「意志」があれば、例え失敗を繰り返したとしても先に進むことが出来る。ただ今の私にはこれと言った「夢」や「欲求」がない。そもそもどこに向かって進めばよいかもわからないから、一歩を踏み出すことすらできない。
細かいことを考えずに夢や欲求を語る子供の笑顔がまぶしい。したいことはなにか。食べたいも、行きたい場所、会いたい人、読みたい本、知りたい事。かつて私もはっきりと意識できていたモノたちが、今は少しぼんやりと、離れたところに転がっている。まずはそういった欲求一つ一つに向き合って、欲求を叶えるための意志を高めることからやり直そうと思う。リハビリには少し時間がかかるかもしれないが、私はまだ人生100年時代を折り返してすらいない。きっとまだ、十分に間に合うはずだ。でも始めるなら、早いほうが良い。