マネジメントの敵は不確定要素
マネジメントとは管理することであり、管理対象が適切な状態であるかを把握することが重要だ。管理対象自体は目に見えないことが多いため、管理対象の状態を分かりやすく見える化するための指標を使う。例えばコスト、時間、リスクだ。これらの指標が許容範囲内にあるかを定期的に確認し、問題があれば対処する。これが実質的な管理となる。
時間やお金が限られた範囲でなにかを成し遂げようとするために管理は必ず必要だ。問題があっても傷が浅ければ短時間且つ低コストでリカバリできることが多い。そして管理する上で、不確定要素はできるだけ排除したい。やってみなければどれだけの時間がかかるかわからない、といった作業は計画が立てようがなく、順調に進捗しているのかどうかも管理が出来ない。そこで管理対象の粒度を小さくし、不確定要素を出来るだけ少なくしようと試みる。
例えば、通常であれば1から10の工程に7日間かかる作業があるとして、これを10に分けて1工程1日で完了するように計画する。各工程ごとのマニュアルを用意したり、作業者にできるだけ作業内容を細かく説明すれば、担当者による能力・経験の依存度は下がり、不確定要素も減る。1工程が1日で終わらなければ問題が生じていることになるので、リカバリもたやすい。本来なら1週間で終わる作業が10日かかったとしても、3日分は念のための予備期間としておけば、早く終わる分にはなにも問題ない。納期に間に合うのであれば、7日でできる作業に10日かかっても別に良い。しかし同じ作業を1週間で終わる計画にしていてそれが3日多くかかった場合、計画外の3日の遅れは納期に影響を及ぼしかねない。余裕を持った計画を作ることも、管理する際の常套手段だ。
マイクロマネジメントの功罪
不確定要素を減らそうとするならば、出来る限り管理対象の粒度を小さくして難易度を下げることが効果的だ。こいった手法は「マイクロマネジメント」と呼ばれるのだが、昨今、特にIT業界においてはこの手法が問題視されるようになった。マイクロマネジメントの弊害を実感する人が増えた、というほうが正しいかもしれない。マイクロマネジメントとは、言い換えれば「過保護」だ。
細かく丁寧なマニュアルを準備する。上司が部下に細かい指示を与えるとともに、ことあるごとに報告と相談を求める。作業の内容は細かく決められていて、それらを着実に進めていけば、確実にゴールに向かって進んでいく。分からないことはマニュアルを見ればわかるし、細かくブレイクダウンされた作業は、とてもたやすい。なにか問題が起きたり遅れが発生すれば、影響が広がる前に上司がフォローに入ったり、他のメンバをアサインして火消しをする。
人は誰しも失敗するのは嫌なものだ。失敗した本人もそうだが、管理者も管理対象に生じた問題をリカバリするための対応が突如湧いてくるので、他の作業と優先順位やリソースの調整を迫られる。また事あるごとに質問・相談に対処するのも負担に思うため、出来るだけ失敗することなく、また迷うこともないよう手順を簡素化、自動化、マニュアル化する。そうすれば誰でもすぐに一定レベルの仕事が出来るようになる。
そういった下準備を突き詰めていくと、ほとんどの作業が計画通りに粛々と終わっていくようになる。作業量に応じて作業者が無理なく割り当てられていれば残業もなく、毎日決まった時間に退社できる。ワークライフバランスもばっちりだ。管理者も作業者も良いことばかりで、まるで理想の仕事環境のようにも思える。
しかし実際はそうではない。マニュアル通りにやれば失敗しないのだが、マニュアルに書いていない事、指示されていない事をやって失敗すれば当然ながら上司や周りから責められてしまう。マニュアル通り、指示通りに作業してうまくいかなかったら、悪いのは自分ではない。マニュアルや指示が悪いのだ、自分は悪くない、という自己擁護が容易となる。そして自分で責任をもって判断することを避けるようになる。責任を負わなければ責められることもなく、精神的な安全を保つことに繋がる。最終的には指示に従うだけのマニュアル人間の出来上がりだ。
初めの頃はマニュアル化された仕事をこなせば成果が出て評価もされていた。しかし中堅になっても同様の仕事しかできなければ評価は頭打ちとなり給料も上がらない。マニュアル化された仕事というのは一定量あるが、真に価値があり評価されるのは、そのような誰にでも出来る定型的な仕事ではない。正解があるかどうかすらわからない問題を切り開くことで事業は拡大し、会社は成長し、収益が上がる。そのため会社にとっては大勢のマニュアル人間ではなく、答えを導いて問題を解決する能力を持った人材が必要だ。そして分からない事でも投げ出さずにやり抜く意思、強い責任感を持っていれば、信頼して重要かつ価値のある仕事を任せられる。
しかしマニュアル至上主義の環境で育つとそういった経験もできず、能力を伸ばせない。そして自己擁護・他責ばかりしていては会社から信頼されず、挑戦的な仕事を任される機会も与えられない。不確定要素の多い仕事に対する経験をしてきていないので、中堅になってからそういった役割を期待されてもその準備もできていない。失敗が許容されることに失敗の経験ができないことで、中堅になって失敗できない状況で正解のない仕事に取り組むことを求めらても、まともに対処することは難しい。社会人として完全に頭打ちだ。
マイクロマネジメント的育児
仕事だけではなく家庭生活においても、程度の差はあれ誰もが自然と管理をしている。収入の範囲に支出を抑えたり、子供の帰宅時間を確認したり、イベントごとをカレンダーに書き込むのも管理と言える。また子育ては会社での人材育成とも共通点が多く、ふと自分がしてきた子育てを振り返ってみると、ひどくマイクロマネジメント的であったと気付いた。
子供にはできる限り良い経験をさせてあげたい。痛い思いや悲しい出来事は経験してほしくない。上手くいかないことや失敗を経験することが大事だと分かってはいるが、わが子が転びそうになっていればサッと支えて転ばないようにする。生まれたばかりのころは一人では何もできなかったのに、成長するにつれて少しずつできることが増えていく。保育園のうちは歩く、食べる、話す、着替える、読む、書くといった基本的なことから。小学校に入れば習い事などで技能技術を身に着けたり、塾で勉強したり、強い意志をもって選択、判断もできるようになる。それでも考慮不足・想定不足によって判断を誤ることも多いし、技術や知識が足りずに失敗することもある。そんな時に正解を教えたり、上手くいくように手伝ってあげる。それが親心であり、悪いことではないはずだ。
そう思い込んでいたけれど、どこかで子供を思い通りにコントロールしたい、という欲求が先にあったのだろう。塾や学校の宿題のスケジュールを分刻みで作り、この計画通りにやればうまくいくはずだと子供に押し付けていた。でも子供にも自我があり意志があり欲求があるので、押し付けられた計画に黙って従うばかりではない。そして作った計画通りに子供が実行せずに結果がでなければ「なぜいうことを聞かなかったのか」と思わず責めてしまっていた。
本人がどうしたいのか、ちゃんと耳を傾けることはできていなかった。子供の自主性を尊重したい、と口では言っていたが、実際にやっていたことは真逆だったように思う。
今、中学生になった息子は、失敗することをひどく恐れているように見える。また新しいこと、不確定要素の多いことへのチャレンジをしようせず、自分の居心地のいい領域からはなかなか出ようとしない。些細な事なら、やって失敗してもなにも問題はないのに、そのさじ加減が分からない。そういった姿を見ると、小さいころからもっと不確定要素の多いことにチャレンジさせて、いろいろな失敗を経験させてあげられなかったことが原因ではないか、という気がしている。マイクロマネジメントによって育てられたマニュアル人間と姿が被る。
脱マイクロマネジメント育児
幸いにも息子はまだ中学生だ。小学生のころは過保護に管理しすぎてしまったかもしれないが、まだいくらでも失敗を経験するチャンスはある。高校、大学と成長し進学すればそれだけ失敗した時の影響も大きくなるが、中学生ならまだ失敗してもほとんどのことはリカバリ可能だろう。
親としては口を出したい、細かく管理したい、という欲求はあるけれど、息子のためにはグッと我慢しなければいけない。もっと息子と話し合おう。息子の欲求を聞こう。そして息子の意思を尊重し、失敗しないように守るのではなく、失敗をカバーするのでもない。自分で失敗を乗り越えようと四苦八苦する様を見守ろう。そしてどうしても必要になったら、その時になって手を差し伸べればいい。それまでは息子をただ信頼して待つのみだ。